これに対して、日本では「政府の失敗」に対する警戒が少なく、なんでも「国に任せる」という発想がむしろ基本だ。政府もそれをわかっていて、強い規制や高い税金をまんまと維持している。もちろん、日本でも政治家や役人は毎日のように批判されているが、概して「もっとちゃんとやれ」という批判に過ぎず、「国に任せる」ということ自体はあまり疑われない。国民の考え方が、基本的に「国任せ」なのだ。だから批判にしても、当事者性を欠いた「外野のヤジ」みたいなところがあり、自分が責任を引き受けるという話になると、とたんに強い拒絶反応を示す。
民主党の圧勝が予想されている今回の総選挙で、自民党と民主党のあいだに本質的な「対立軸」がないのも、この国民の「国任せ」体質が一因だと思える。「国任せ」という枠組みから出ない限り、どう規制するか、どこにバラマキするかといった小さい違いしか出てこない。経済成長の観点から見れば、「規制緩和」「バラマキをやめる」という以外に選択肢がないのは明らかだが、これは「小さな政府」の方向であり、ちょうど「国任せ」の反対である。いまの自民党や民主党もたしかに情けないが、基本的には国民自身がこの「国任せ」という発想から脱却しておらず、いまの自民党と民主党の「対立軸」を欠いたポジショニングは、そのような国民意識の反映であるようにも思える。アメリカでは「国に任せるかどうか」が議論の分かれ目になるが、日本では「国に任せる」ことが前提になってしまっているのだ。
蔵研也氏は著書『リバタリアン宣言』(2007年2月発行、朝日新書)の中で、この「国任せ」の考え方を「クニガキチント」と呼んでいる(第1章「日本の政治の現状とリバタリアニズム」末尾「クニガキチントの罠」)。日本人がこの「クニガキチント」を脱却し、「責任もないが自由もない」という「子供扱い」でなく、「責任もあるが自由もある」という「大人扱い」を欲するようになれば、日本の政治ももっと成熟し、経済も再び成長路線に乗ってくるのではないか。成熟した国の経済は、国の統制やバラマキでなく民間が主導するものであり、「クニガキチント」は本質的に経済成長と対立するものだ。日本は先進国と言われるが、その制度や精神はいまだに途上国的なところがあり、「国民は政府の言うとおりに動くべし」という中央集権的な考え方を、政府ばかりか国民も支持しているようなところがある。政府が国民を子供扱いする「パターナリズム」に、国民の側も安住しているのだ。
ネットやブログによって、若い世代は政治について考えたり、意見を発する機会が急激に増えている。特に今回の「政権交代」選挙では、2005年の「郵政」選挙時にも劣らぬほど、政治に関する大量の意見が飛び交っている印象だ。これほどの「政治意識の高まり」は、私は生まれてこのかた見たことがない。学生運動が活発だった頃以来、実に40年ぶりくらいに、日本の政治意識は高まりつつあるのではないだろうか。「政治について考え、意見を発する」ことはきわめて重要であり、これが日本の政治を少しずつ変えていくだろう。少なくとも、マスコミの情報を丸呑みするしかなかった時代に比べれば、政治に関する大量かつ多様な情報に接することのできるいまの時代は、はるかに健全であり、学習機会も豊富だ。
日本の政治を変えるには、投票に行くことも重要だが、「政治について考え、意見を発する」ことは、それ以上に重要かもしれない。今回の総選挙でも明らかなように、「世論」は実際の投票日より前に決まってしまうので、本質的な決定要因は投票そのものというよりも、どのような「世論」が形成されるのか、そこが焦点になる。この世論形成に対するマスコミの独占的な影響力が落ちてきて、ネットの影響力が増しているというのがいまの状況であり、その点だけでも大きな進歩だろう(バカげた公職選挙法が改正されて、ネット活用も自由になれば、さらに大きな進歩だ)。このような環境で育ち、政治について自分の意見を堂々と述べることが普通であるような若い世代が出てくる頃には、日本の政治はきっと良くなっているだろう。
- http://mojix.org/2009/08/29/nihon_no_mondai (via nisshan) (via ilovebookmark) (via theemitter) (via yaruo) (via kml)